昭和女子大学グローバルビジネス学部にて特命教授を務める、八代尚宏先生にお話を伺いました。
八代尚宏先生は、「経済政策」「労働経済学」「社会保障」を専門に研究されています。
日本の経済の低迷は、今後も続くのでしょうか?日本経済が変容していく中で、若者はどのようなキャリアを歩むべきなのでしょうか?
日本経済の現状と未来、そして経済が変容する中でのキャリア形成のポイントについて、八代先生独自の視点からお話しいただきました。
昭和女子大学
グローバルビジネス学部
特命教授 八代尚宏先生
日本経済研究センター理事長、国際基督教大学教授、昭和女子大学副学長等を経て現職。著書『現代日本の病理解明』(日経・経済図書文化賞)、『日本的雇用慣行の経済学』(石橋湛山賞)、『シルバー民主主義』、『日本経済論・入門』など。
日本の賃金が上昇する見通しは乏しい
過去20年間にわたり、日本の平均賃金はまったく上昇していません。さらに、最近はデフレ状況が一変し、海外インフレの影響で消費者物価も上昇しており、経済的に苦しい実感が高まっています。2023年の春闘賃金は3%超えとなりましたが、この効果も同程度のインフレに相殺されて、平均賃金は実質的には横ばい、ないしは減少となっています。
しかし、この状況は日本経済の循環的な不況に起因するものではありません。失業率は完全雇用水準の2%台を維持しており、むしろ人手不足が深刻化しています。労働力の供給源である15~64歳の人口は、過去20年間で1100万人も減少しています。
需要不足よりも供給面の労働生産性の伸びが小さいことが賃金低迷の大きな原因であり、2010年から2022年までの12年間で労働生産性はわずか5%しか高まっていません。これは企業が負担する社会保険料込みの、実質賃金コストの増加率とほぼ同率です。
日本企業の生産性が大きく低下した主な要因は、最も生産性の高い製造業が海外に移転し、生産性の低い農業やサービス業の比重が高まっていることにあります。大企業は海外の子会社からの収益で潤っていますが、得た収益は利益率の高い海外に再投資され、少子高齢化で今後縮小が見込まれる国内市場への新たな投資には消極的です。そのため、労働生産性が低迷して賃金が上がらない状況は、今後も続くと見られます。
低い賃金増加率の中でも安定した生活は送れる
平均的な賃金は低水準となっていますが、その中身は、年齢や世帯構成によって大きく異なります。1995年から2021年までの平均賃金の増加率はわずか6%に過ぎませんが、勤続年数がゼロの若年世代では16%増加しています。一方、最も勤続年数が長い30年以上の世代では、6%減少しています(「賃金構造基本統計調査」)。年功賃金が市場の年齢別の労働力需給の変化に伴って徐々に崩れつつあり、賃金水準の高い中高年齢層の賃金の低迷が平均賃金を抑制している面が大きいと言えます。
過去の経済成長率が高かった時代は、家計を支えるためには夫の収入だけで十分でした。しかし、今では夫婦が共に働き、家事や子育てを共に行うライフスタイルが若い世代に広がりつつあり、共働きであれば、低い賃金増加でも、ある程度まで安定した生活が可能です。
また、女性が働くから子どもを産めないというのは誤解です。若年層においては共働き世帯のほうが平均的には豊かであり、最新の「出生動向基本調査」によると保育所を活用して専業主婦世帯よりも、やや多くの子どもを育てています。女性の継続就業と子育ては多くの先進国では両立しており、日本も「専業主婦に家事や子育てを任せて、夫は仕事に専念する」という過去の働き方からの脱却を目指す必要があります。
持続的な賃上げを実現するために
企業が持続的な賃上げを実現するためには、生産性の継続的な上昇が不可欠です。良い例が、コメ農業です。日本のように温暖な気候と豊富な水資源、十分な土地があり、勤勉な農民がいる国で、なぜ主食のコメを高い関税で保護しなければならないのでしょうか。それは政府が多額の補助金で主食用米の減反を農家に強いて米価をつり上げ、納税者と消費者に多大な負担を課しているからです。農業の生産性向上に逆行する減反政策の代わりに、必要に応じて農家に直接補助を行えば、米の生産量は大幅に増加します。その結果、地方経済の振興とともに、米価の水準低下で日本は世界に良質のコメを輸出でき、世界の食糧危機の改善にも貢献できます。
ICT分野でも多くの利権が渦巻いており、中小企業の保護政策により新しい企業の参入が抑制されているため、新陳代謝が進んでいません。今後起こる長期的な人手不足社会においては、失業リスクは低下しています。北欧のように、企業ではなく労働者を直接守る政策が必要となります。
変化する経済環境下で、より良いキャリアを歩むために大切なこと
経済環境の変化に伴い、即戦力がますます重要視され、社会科学の分野においても職業能力に繋がる資格が重要性を増しています。
長期雇用保障は崩れつつありますが、いきなりフリーランスや起業家として成功できるスキルを持つ人は例外的です。そのため、これからキャリアを形成していく若い世代の皆さんは、まずは企業規模にとらわれずに成長分野の企業で経験を積み、自身の職業スキル形成を目指すべきでしょう。良い転職機会を求めるには、まず現在の企業で実績を上げることが前提となります。
また、従来の出世志向とは違い、企業の言いなりとなって配置転換や転勤に従うだけでなく、自分なりに将来のビジョンを描いて、自らの市場価値を高めるようなスキルを磨くために投資していくことも必要です。
さらに、企業内で自分のロールモデルになるような上司や先輩を早く見つけて、積極的に指導を求めることも必要です。これは特に女性にとって重要で、社内だけでなく社外のネットワーク活用も有用です。
キャリア形成において大学活用が重要な時代になっている
社会科学系の学部では、工学系や医療系と異なり、司法試験や会計士試験などを除いて、個人の職業能力と結びついた高度な資格が乏しいと言えます。代わりに、大学院で修士以上の経済学や経営学の資格を取得することが、長期的なキャリア形成において重要です。今後のグローバル社会においては、国内の名門大学を卒業しても学士号だけでは低学歴と見なされてしまいます。
国内においても、専門職大学院では仕事をしながら少しずつ単位を取得することが可能です。雇用保険からの補助制度も活用できます。しかし、できるだけ外国の大学で学ぶことで、異なる世界を体験できるだけでなく、同時に語学力も習得できます。企業などからの留学支援制度を利用できる人はごく少数だと思いますが、自己資金でも東アジアの大学ならコストが抑えられ、質の高い英語の授業も数多く提供されています。英語が得意でなくても、仕事で必要に迫られる状況であれば、短期間で語学力を向上させることは可能です。
社会人として国内外の大学の授業を長期的に活用することが、個人のキャリア形成において重要な時代になっています。